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院長コラム “やじろべえ” バックナンバー 2019年度

2020年3月

 2月下旬現在、新型コロナウイルスの収束が見えない状況が続いている。それにしても、ここまでの流れにおいて驚愕したのは、中国がわずか  10日間で1000床の病院を建てたことであった。ああ、こんなに迅速に大病院ができるのに、ここ下関ではたかだか400床程度の病院統合がいつまでたっても進まないのはなぜだろうと、あらぬ方向に考えが及ぶのは、地域医療構想がかたときも私の頭から離れないせいである。
 的はずれな連想というなかれ。一党独裁、国家資本主義を国是とする中国と、かたや議会制民主主義の日本。この違いは、両国の様々な意思決定プロセスにおいて顕在化する。医療政策も例外ではない。
 やると決めたらトップダウンで圧倒的な人と物を投入して事を進めるチャイナパワーは、うらやましくもあり見習うべき点もある。しかし、そもそもウイルス感染のアウトブレイクは武漢における初動ミスが原因であり、これなどは中国の負の側面が表れた一例と言える。一長一短である。

2020年2月

 京都に学会出張した折に、会場が北のはずれに位置したこともあって大原まで足を延ばした。目指したのは寂光院。建礼門院徳子が晩年を過ごしたこの古刹は、下関にもゆかりの場所である。
 建礼門院徳子は、平清盛の娘であり安徳天皇の母親である。清盛没後、源氏と平氏との激しい抗争の末、京から西に落ち延び、壇之浦で最終決戦に臨んだ。合戦の趨勢が決したとみるや、徳子は安徳天皇と共に入水。しかし徳子のみ源氏の武将に引き上げられ一命をとりとめる。その後、平氏側有力者の多くが斬首される中、徳子は助命され、京に戻されて寂光院に幽閉。平氏一門を弔う日々を送りつつ生涯を終えた。
 後白河法皇が寂光院の徳子をたずねるのは、平家物語の中の有名な一場面だ。徳子は波乱にとんだ半生と没落後の境遇を語り、法王は涙する。このエピソードを記して平家物語は閉じられる。
 訪れた寂光院はしんしんと降る雪の中にあった。山の斜面に窮屈そうに建つ質素なたたずまいは、源氏からの圧迫を常に感じながら過ごしたであろう徳子の余生をしのばせるものであり、諸行無常を体現しているようでもあった。


2020年1月

 昨年リニューアルした広島平和記念資料館に行ってきた。外国人来館者の多さに、もっと日本人が訪れるべき場所だが、とぼんやり思いながらまわるうちに、背中がひんやりとする考えが浮かんだ。今の平和があるのは核兵器があったからこそではないかと。
 現在は、実は近代以降まれにみる平和な時代である。1900年以降の100年あまり、大戦争のない状態が60年以上続いて今に至っている。この要因はいくつもあるが、米ソ2大国の核戦力の均衡がその一つであることは事実であろう。私はけっして核兵器を肯定する立場ではないが、いわゆる核抑止論が正当性を持ってしまうという現実を否定はしない。
 昨年は、東欧諸国の共産主義政権があいついで倒れてから30年目の年であった。東欧革命とソ連崩壊後、世界に自由主義が広がるだろうという予測は、どうやら甘かったようだ。むしろ逆行するような体制が各国に生まれつつある。分断と対立が進む時代に、広島と長崎の悲劇を繰り返さないためには、核廃絶を無垢に唱えるばかりではなく、国際政治の冷たい現実を頭に入れてかかることが大切だと思うのだが。


2019年12月

 厚労省が9月に公表した『再編統合や縮小に向けた議論が必要な公立・公的病院』に対するハレーションが強い。「発表が唐突」、「根拠としたデータに疑問」、「地域の実態と乖離」、「その先にあるグランドデザインが不明確」など。厚労省は全国各地で説明に追われているようだ。
 一方でこんなデータもある。エムスリーが7,259人の医師を対象に行った調査において、今回の公表結果が「妥当」との回答が53.1%、2025年に向けてなんらかの医療体制の見直しが「必要」との回答が84.6%であったという。このギャップをどう考えたらよいのだろう。
 厚労省への批判の声をあげたのは、知事や市長など自治体関係者やリストに挙がった病院幹部が多いようだ。もっともな主張もあるとはいえ、直接影響をこうむる地域住民向けのポーズが透けて見えるのは私だけであろうか。現状追認にとどまり、いっこうに実効の上がらない地域医療構想会議の実態の一因ここにあり、という気もする。
 おかみに反発することは簡単だろう。しかし、もうそのエネルギーは自らの足元の地域に向けて注ぐべき時期ではないか。2025年まで、あと5年ばかりしかないのだ。


2019年11月

 吉野彰氏の受賞にわいた今年のノーベル賞。わが国出身の受賞者は、米国籍を含めると、これで27人ということになる。
 受賞者を出身大学別にみると、京都大学の健闘が目立つのは以前から言われてきたことだ。最高学府東京大学への対抗意識もあるのだろうが、実際には(学部卒では)東大8人、京大6人とけっして東大が負けているわけではない。日本人受賞第一号、第二号の湯川秀樹氏と朝永振一郎氏が共に京大出身であったことも、世間に京大強しを印象づけているのかもしれない。いささか東大には気の毒なことである。
 もっとも東大8人のうち2人は文学賞(川端康成、大江健三郎)、1人は平和賞(佐藤栄作)なので、「理系」というくくりでは京大に軍配が上がると言えなくもない。そういえば、文学賞の有力候補でありながらついに受賞に至らなかった三島由紀夫と安部公房も東大出身である。東大は人文系に人材ありということか。
 東大出身者は高級官僚の多くを占めるなど、この国の重大事に深く関わってきた。明治以来、東京帝国大学はその使命を帯びた教育機関であった。このような背景もノーベル賞の結果に及んでいるのかもしれない。


2019年10月

 下関医療センターのまわりには、高杉晋作ゆかりの史跡がたくさんある。新地会所跡、厳島神社、了圓寺、療養の地、終焉の地、桜山神社など。何故こんなに集中しているのか。最近、下関市歴史博物館学芸員松田和也氏のご講演を拝聴したことで、かねてからの疑問が氷解した。
 江戸時代、毛利家が治めていた現在の山口県は5つの支藩に分かれていた。長州藩、岩国藩、徳山藩、長府藩、清末藩である。今の下関の大部分は長府藩領であったが、竹崎町と伊崎町あたりは清末藩領であった。その長府藩と清末藩にはさまれた飛び地のエリアに長州藩領があり、現在の新地や今浦町がこれにあたる。長州藩士の高杉晋作が、当院周辺を下関での活動拠点にしたのは当然であったというわけだ。
 厳島神社のそばにひっそりとたたずむ新地会所跡が、個人的には感慨深い。晋作は藩内クーデターを企て、功山寺で決起する。その直後に襲撃したのが長州藩新地会所であった。この瞬間から、維新に向けて歴史が大きく転回するのである。


2019年9月

 6月に発覚した吉本興業所属芸人の闇営業問題は、二転三転とめまぐるしく展開したが、ようやく収束しつつあるように見える。反社会勢力との関わりは批判されるべきであるが、事件の根底には吉本興業の不明瞭な雇用形態や、本業だけでは食っていけない芸人の実情があるようだ。この事件は、はたして我々とは関係の薄い業界の、遠い話ととらえてよいだろうか。
 最近、全国の医科歯科大学病院勤務医のうち約7%が無給である実態が文科省の調査で判明した。この数値の妥当性を問う声もあるが、大学に勤務経験のある医師にとって違和感のない結果ではないか。若手医師の給与を低く抑えることで成り立つ病院経営。低収入を補うためにアルバイトをせざるを得ない勤務医の実態。この構図は吉本興業のそれとどれだけ違いがあるのか。
 新臨床研修制度の導入後、初期研修医の待遇が改善されたとはいえ、後期研修医はどうだろう。大都会の有名大学で研修する医師たちに十分な手当てが支払われていないだろうことは想像に難くない。
 吉本興業事件は、現在進められている医師の働き方改革や偏在対策において、避けて通るべきでない重要な課題を我々につきつけていると思う。


2019年8月

 「神は細部に宿る」と言われるが、「悪魔も細部に潜む」。
 組織の安全管理や危機管理においては、日常の些細なことやルーチンワークの中にこそピットフォールがある。これを見逃さない体制が必要だ。
 一年前の8月、あの忌まわしい「輸液バッグ破損事故」が発生した。世間の記憶は薄らいでいるかもしれないが、私たちは忘れるわけにはいかない。あらゆる再発防止対策に努め、病院に潜む悪魔をつぶさに拾い上げる一年間であった。
 組織には大小のトラブルが恒常的に発生する。しかし、波風なく順調に機能している状態の中にリスクの萌芽がある。「不安定・不均衡」という状態をむしろあるべき姿とし、絶えず柔軟に変化する組織を維持していくことが大切と考えている。
 その仕掛けとして、事故発生の8月7日を当院の「安全管理の日」に定めた。事件を思い出し、緊張感を新たにし、リスクマネージメントを強化していく。毎年この日をマイルストーンにしたいと思う。


2019年7月

 この時期、新聞やテレビでは先の大戦を振り返る報道や特集が多く組まれ、8月の終戦記念日まで続くのは毎年の恒例である。その前月、1945年7月の出来事を繰ると、ウインストン・チャーチルが勝利を目前に英首相を辞めている史実におどろく。しかも総選挙敗北の結果として。その5カ月前に戦後処理が話し合われたヤルタ会談での米・英・ソ連代表のうち、米ルーズベルトは数か月後に病没し、トップで健在のまま終戦を迎えることができたのは、結局スターリンだけであった。
 チャーチルと言えば、ナチスドイツが破竹の勢いで欧州を席巻している時に、「Never give up !」と英国民を鼓舞し、戦況を逆転させ、連合国勝利に導いた立役者である。輝かしい実績をあげても、トップを維持することの難しさを示す事例と言える。当のチャーチルは忸怩たる想いだったろう。もっとも野党に下野した時期に、ノーベル賞受賞作「第二次世界大戦」を執筆できたのはケガの功名か。
 いかに国民的英雄といえども選挙で厳しい洗礼を受ける。議会制民主主義お手本の国らしいとも言えるが、最近の混迷ぶりを見ると、英国民が必ずしも賢明な選択をするとは限らないようである。


2019年6月

 ACP(advanced care planning)に関する医師会主催の研修に参加した時のこと。特別講演の先生の発言に愕然。「最期がせまった時に往生際の悪い3職種は医師と教師と坊主」なんだと。実は、私の両親は学校の教師、祖父は僧侶と、親子3代でその職種を務めたことになる。祖父と親父の最期を思わず振り返った。
 が、こうも思うのである。往生際の悪い最期はそんなに見苦しいものだろうかと。
 人の死に方は百人百様であり、自らの死に方を選び取ることはとても難しい。終末期にせん妄や認知症を発症すればなおさらのこと。穏やかに眠るような死に方を実現できるのはまれであると覚悟すべきなのである。何枚も死亡診断書を書いてきた経験から、これは確かに言えることだ。ACPを行うとき、我々医療従事者にとって肝要なことは、理想の死に方を追求することではなく、あらゆる死に方を受け入れる心構えを持ち、それに対応できるスキルを磨いておくことではないかと思う。
 「余命いくばくもないとわかったら、何もしてほしくない。さっさと死んでいくよ。」そんなことをおっしゃる“元気な”人を見ると、眉をそっとなでたくなる。


2019年5月

 さあ、令和の御世の幕開けである。
 振り返ってみると、ここ近年の皇室に関する話題は明るいものばかりではなかった。女系天皇や女性宮家の議論に始まり、雅子さまのご健康、天皇の生前退位ご意向と皇室典範改正、秋篠宮さまによる宮内庁への苦言など。さらに眞子さまのご結婚問題が加わり、いささかスキャンダラスな視線にさらされていた。ところが新元号の発表で空気が一変。お祝いモードに一気に切り替わったところが、いかにも日本らしい。
 昭和の終わりはどうであったろう。天皇のご容態悪化のため日本中が自粛ムードにおおわれる中、記帳のため皇居前に並ぶ人々の長い列が私の記憶に残っている。ソ連や東欧共産主義諸国が健在であり、国内では社会党や共産党の左派勢力がまだまだ元気な時代にあって、黙々と記帳をする人々の姿は、イデオロギーを超えて、この国の深層を再認識させるものであった。
 多くの人々を共同体や国家に束ねるには、神話や宗教が必要である。日本人にとってのそれは古事記や神道であり、天皇がその正統ということなのだろう。たとえそれが幻想であっても、軽んずることのできないフィクションである。


2019年4月

新年度所信「混迷する世界の中で正気を保つ」

 世の中には常に知識層と呼ばれる一群がいて、彼ら彼女らの大多数が共有している通念が存在し、それが時代の空気や良識を醸成する。現代の通念は民主(主義)であり、戦前は愛国であり、さらにその前、明治維新前後は勤王であったという。それぞれの期間を大まかに定めるならば、勤王は40年、愛国は50年ほどであり、民主はすでに70年を超えた。民主もいつかは賞味期限を迎えるのだろうか。
 その民主の座が、今ほど揺さぶられている時代はない。国内外の政治・経済情勢について割く紙幅を持たないが、ポピュリズムやナショナリズムが台頭しつつある現在は、いつか来た道にそっくりとだけ述べよう。もし民主が守り継がれるべき正義ならば、相応の努力とコストをそのために払わなければならない。社会通念はけっして自明のものではないからだ。
 我々の携わる医療・福祉の分野においても、複雑な課題が山積し、従来の経験が通用しなくなっていることは同様である。少子高齢化、多死社会、消滅可能性都市、地域包括ケア、地域医療構想、健康寿命、フレイル、人生会議、働き方改革、2025年問題、2040年問題。キーワードを並べるだけでクラクラしてくる。このような中で的確な手を打ち続けるのは容易ではない。
 視点をもっと卑近に移してみる。当院の事情である。この一年間、実にいろいろなことを経験した。病院運営上の避けられない事がらだけでなく、様々な不測の事態に見舞われ、その対応に追われた一年であった。道を見失いそうになりながらも、どうにか一年を乗り切ったというのが正直な実感である。
 世界や医療界や自らの周辺が混沌とする状況で判断を誤らないようにするには、正気を保っていられる強さとブレないための羅針盤が必要だ。それを手に入れるには哲学を持たねばならぬ、と私は思うのである。哲学と言って難しく聞こえるのならば、矜持、譲れない一線、見識、美意識と言い換えてもよいだろう。他人のものではない、自分の頭で創りあげた指針を持つ。院長就任一年目の昨年度を振り返った末に得た、私の偽らざる決意である。
 さて、いよいよ令和の幕開けである。平成は、バブル崩壊後の失われた30年にすっぽり入る停滞の時代であった。昭和は、前3分の1が軍拡と敗戦、残りが高度成長とその終焉という振幅の激しい時代であった。令和はどうなるのだろう。安定した時代はどうも期待すべくもなさそうだが、我々は背筋を伸ばして一歩を踏み出さねばならない。不安と高揚を抱きながら、自らの哲学を磨きつつ。
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