院長コラム “やじろべえ” バックナンバー 2020年度
2021年3月
多くの病院で収益が低下し、老人福祉介護事業の倒産が過去最多となるなど、コロナが医療介護業界に大打撃を与えた令和2年度が終わろうとしている。幸い、当院は黒字で終えそうだが、これは空床保証などコロナ関連補助金のおかげであることは否定できない。正当な対価と捉えつつも、コロナ対策と地域医療維持のために、いっそう有効に活用すべきと考えている。この1年間、感染対策と経済維持という、本来矛盾するかじ取りのために政府は多額の歳出を積み上げてきた。コロナ禍前から日本の財政はすでに危機的であったはずだが、大丈夫なのだろうか。実際、2017年の日本の純債務残高対名目GDP比は151.1%であり、これは比較しうる88カ国中2番目の高水準である。当時盛んだった財政破綻の議論はどこかに飛んでしまったような感がある。
最近読んだ本に興味深い記述を見つけた。「マスコミは債務総額1000兆円ばかり問題にするが、これは貸借対照表の意味が分からないド素人の意見。政府が持つ資産と負債を相殺すれば純債務はゼロ。実は日本の財政再建は2018年時点ですでに終わっている」(上念司著「経済で読み解く日本史・室町戦国時代編」)。
いま注目のMMT(現代貨幣理論)とは別の理屈で、わが国の財政は心配なしということらしい。これホント? 誰か教えてくれないかなあ。
2021年2月
2月1日は当院の前身下関厚生病院の創立記念日だ。日本が敗戦の混乱から立ち直り始めた1950年の開設である。当時の出来事を検索すると、同じ日に下関出身の歌手山本譲二氏が生誕している事実に気づく。妙な縁である。
同氏とは肝炎啓発キャンペーン「知って肝炎プロジェクト」のサポーターを務めていらっしゃる関係で、6年ほど前にお会いしたことがある。昭和の演歌歌手らしい、元気ギラギラであった。サポーターはありがたいけれど、毎日アルコールをたしなみ、肝炎検診をまだ受けていない事実を知った時はたまげた。
山本譲二氏誕生の8日後、防府市で作家伊集院静氏が生を受けている。伊集院氏と言えば夏目雅子さんの夫としても有名だが、彼女亡き後、これまた女優の篠ひろ子さんと再婚。美女を惹きつけるだけの魅力ある人物なのだろうが、世の中不公平だとつくづく思う。
お二人とも古希を過ぎてなお、歌に文筆にと、変わらずお元気の様子だ。満70歳となった当院も負けてはいられない。人はやがて衰えていくが、組織は努力次第で若返り強靭になりうる。そう信じて、新たな歴史を刻んでいきたい。
2021年1月
新型コロナ第3波は大都市から地方に及び、山口県でも12月後半から陽性者が急増。当院も「いつもと違う」緊張感の中で年末年始連休に臨んだ。まず、山口県内の感染症指定医療機関の診療が逼迫してきたことから、当院においても感染拡大に対応するため、陽性者入院受け入れ枠を拡張することとした。拡張に向けては半年以上前から準備してきたこともあり、12月28日稼働にこぎつけることができた。
入院患者・老健入所者には面会制限強化、外泊外出禁止をお願いした。利用者サービス低下となるも致し方ない。面会はオンラインのみとしたが、これが好評で、たくさんの方に利用していただいている。
発熱患者などコロナ疑いの救急受診が殺到する懸念があったが、そのようなこともなかった。これは休日当番や発熱外来を担った下関市医師会のご尽力が大きかったと思う。
連休中、肺炎で救急入院した後に陽性が判明し、中等症に進んだケースにおいては、転院を山口県内の感染症指定医療機関が円滑に受け入れていただいたことにお礼を述べたい。
振り返ってみて、少なくとも当院では大きな問題なく連休を終えることができたことを関係諸方面に感謝申し上げる。有事には国や地域の底力が試される。これまでのところ、下関市の医療体制は確かに機能している。
2020年12月
中国武漢で新型肺炎が報告されたのが1年前。それからというものCOVID-19に世界中が振り回され続けたが、収束どころか再拡大の局面のうちに2020年が終わろうとしている。新年を迎えるにあたって少しでも前向きな気持ちになれるように、この騒動で得たものは何か考えてみよう。まず、感染症や公衆衛生について人々の知識と意識が格段に上がったこと。PCR、飛沫/エアロゾル、クラスター/オーバーシュート/パンデミック、実効再生産数、ECMO。これらは、コロナ前には一般市民にほとんどなじみがなかったはずだ。基本的防護の徹底と治療法開発の大切さを、市民が認識したことは社会的財産になる。
数理モデルなるもののパワーを知ったことも大きい。西浦博京都大教授らが発信し続けている流行データ分析やシナリオ分析は、政策決定に大きく寄与した。人の行動の結果としてのウイルスの時間的・空間的拡がりは数学的に説明可能なのである。その数式は私にはほとんど理解できないが。
これらの経験の示すことは、サイエンスに基づく合理的思考と行動の重要性だ。科学を軽視するリーダーに率いられ、世界最多の感染者を出し続ける某国を我々は反面教師としなければいけない。
2020年11月
下関医療センターから歩いて数分のところに史跡「高杉晋作終焉の地」があるが、もう一人、病院のすぐ近くの地にゆかりのある著名人がいる。今浦町で生まれた松田優作である。11月6日は松田優作の命日だ。若いころから彼を追っていた筆者にとって、その突然の訃報はあまりにも衝撃だった。今でも命日が近づくと胸に迫るものがある。
優作はデビュー後すぐに勝ち得たスターの座に安住することなく、常に新たなステージに挑戦していった。40歳という若さで逝ってしまったのは、身を削るようにして演技を磨き続けた末の帰着だろうか。複雑な生い立ちゆえのコンプレックスをかかえながら、ストイックに駆け抜けた俳優人生は、クールそのものだった。
下関駅にほど近い通称マルハ通りの一画に、下関にいたころの優作が通いつめた食堂「大阪屋」がある。何年か前に訪ねたことがある。いかがわしい看板の並ぶ周囲に埋もれるように建つ年季のはいった店構えと、それを切り盛りする老夫婦。優作がよく注文したというチャンポンをいただいた。野心を秘めた青白い炎を、爬虫類のような目の奥で灯しながら、優作もチャンポンをすすっていたのだろうか。
2020年10月
日本国民の平均寿命は2019年に男性81.41歳、女性87.45歳となり、いずれも過去最高を更新した。変わらぬ長寿ぶりだが、国別ランキングでは香港に首位の座を譲って久しい。香港は5年連続で男女とも1位を堅守しているのだが、これには若干の違和感を抱く。まず、香港は国なのかという疑問。中国に返還以前の統計上の慣習が残っているのだろうか。二つ目は、喧噪、過密、けばけばしい街並み、高カロリーの中華料理といった香港のイメージが健康長寿にマッチしないという点。もっとも、これは個人的なステレオタイプの思い込みかもしれない。
香港の平均寿命が高い理由を検索しても、なかなか腑に落ちる説明にヒットしない。挙げるとすれば、公園や運動施設を増やす健康促進プロジェクトを香港政府が展開していること、65歳以上になると「長者カード」が支給されて病院やスーパーの割引など高齢者が生きやすい環境が整えられていること、公立病院の診療費が低いことなどで、日本も参考にすべき点が多い。
その香港は、いま重大な岐路にある。中国政府による国家安全維持法の一方的な施行により、人権や独立性や自由な体制が奪われ、巨大なチャイナ・パワーに飲みこまれようとしている。長寿世界一の座も揺らいでいくのであろうか。
2020年9月
お盆の最中、叔母の訃報が届いた。認知症もなく、自立した生活をおくっており、急逝であった。とはいえ享年98歳。大往生である。さあ葬儀、という運びになるのだが、叔母の在所は岡山県北部の僻地。コロナ禍の中、県外からの会葬者お断りの連絡が葬儀社より入る。その代わりに葬儀の様子をリモート配信するというので、LINEで参列した。
送られてくる映像はまずまずだが、木魚や鐘の音色が妙に硬質で耳障り。それよりも、院長室でスマホから眺めることの違和感が大きい。途中で業務連絡が入ったり、トイレにたったりと落ち着かない。故人を見送るために、仕事を休んで親族や知人と同じ空間を共有するという、本来あたりまえの様式の大切さを痛感した。
今、ソーシャル・ディスタンスを前提とした様々な試みが社会に広がっている。そのために、人と人とが触れあってこそ成り立つ文化や伝統が空洞化するのは悲しい。ニュー・ノーマルになじまないものも確かに存在する。そんなことを考えさせる、リモート葬儀初体験であった。
2020年8月
多くの情報がネット空間を飛び交う時代。情報を発信する側にとって、あやふやな知識は確認し、整理しておくことが大切だ。例えば…ワカサギは鳥ではない。
カワセミやヤマセミは昆虫ではない。
「小倉あん」を「こくらあん」と読んではいけない。
GAFAにNetflixが加わるとFAANGになる。
ジョージア州はアメリカだが、ジョージアという国はコーカサス地方にある。
“New England Journal of Medicine”のニューイングランドがあるのはイギリスではない。
ホラー作家スティーヴン・キングの英語表記は、“Stephan King”である。
アーティストの村上隆は「むらかみたかし」と読む。作家の村上龍と混同してはいけない。
フルボディのワインとは、大きなボトルいっぱいに入ったワインのことではない。
初音(はつね)ミクは2次元の存在だが、夏目三久は実在のフリーアナウンサーである。
下野(しもつけ)は上野(こうずけ)の東にあり、下総(しもうさ)は上総(かずさ)の北にある。
以上、自身の経験を一部含めて。皆さんも赤っ恥をかかないように。
2020年7月
コロナによる外出自粛のため、休日はおうち生活をおくることが多い。自然とYou Tubeへのアクセスが増える。そのコンテンツは膨大なもので、個人的にはジャズの名盤やライブ映像を手軽に楽しめるのがありがたい。むかし、レコードやCDを苦労して手に入れていたのはなんだったのか。若い世代ではすっかりYou Tubeが浸透し、テレビ離れが進んでいる。このままテレビはすたれていってしまうのだろうか。さにあらず、と思う。
例えば、かつて映画は斜陽産業の代名詞であり、テレビの台頭によっていずれ消えてしまうともと言われていた。ところが、日本の映画入場者数、興行収入とも2019年は過去最高を記録し(2000年以降の集計)、予測ははずれた。同様に、このデジタル時代にLPレコードが復活していることも興味深い現象だ。
古くても魅力あるもの、しっかりと根付いているものは簡単には消えない。過去から連綿と続く技術、芸術、文化、サブカルチャーが積み上がり、幾層にも折り重なっているのが、この社会の実相である。
2020年6月
新型コロナの治療を受けたボリス・ジョンソン英首相が発した「社会は確かに存在する」というメッセージは、M・サッチャーによる「There’s no such thing as society」を引用し、逆の意味をこめたものであった。サッチャー主義継承者のはずのジョンソン首相の言葉であることの意味は重く、かつ深い。本人の真意はともかくとして。わが国の新型コロナ第1波はヤマを越え、世間は活動を再開しつつある。そのタイミングで政府から提唱された「新しい生活様式」は、3密回避など従来のスタイルを大きく変えることを要求する内容であった。しかし、生活様式なるものは長い歴史の過程で培われたものであり、それを将来にわたって永遠に変更することは可能なのか。あるいは正解なのか。
確かに感染症は人類史を何度も変革してきたが、人々の伝統や文化まで変える力を持ちえただろうか。感染が拡大するのは、とりもなおさず人々が社会生活を営んでいるからであり、パンデミックという現象は人間社会の必然とも考えられる。この意味でジョンソン首相の発言は感染症の本質に触れている。
はたして政府が奨める新しい生活様式が浸透、定着して「新常態」となるのか。注目すべき社会実験と言えよう。
2020年5月
この4ヶ月ほどで世界は一変してしまった。トランプ大統領は自らを戦時下の大統領と呼んだ。メルケル首相は第二次世界大戦以来の事態と言った。新型コロナ禍が戦争に比肩しうる危機だとすれば、我々日本人は生かすべき多くの教訓を持っているはずだ。先の大戦でわが国は滅亡の崖っぷちに立つ重大な失敗を経験したのだから。日中戦争と太平洋戦争で犯した日本と日本軍のミスから学び取り、このやっかいなウイルスとの戦いに臨む心構えを挙げてみよう。同じ轍を踏まないために、
・正しい情報を得ているか。マスコミ等にミスリードされていないか。
・明確な戦略目的を持ち、組織全体で共有されているか。
・意思決定や指揮系統が統一されているか。
・科学的合理性に基づいて行動しているか。(精神主義や個人のスキルに頼っていては勝てない)
・ロジスティクス(兵站)は十分か。(感染防護具がこれにあたる)
・有効な武器を持っているか、あるいは開発しているか。(言うまでもなくワクチンや抗ウイルス薬。竹やりではB29は落とせない)
・結果をフィードバックし、計画を修正するシステムを持っているか。
・不測の事態に備える準備をしているか。
・希望的観測をしてはいけない。さりとて、希望を失ってもいけない。
2020年4月
ジャズトランペットのヴァーチュオーソ、帝王マイルス・デイビスにまつわる話をひとつ。マイルス率いるバンドの演奏中のこと。マイルスのソロのバックで、ピアノのハービー・ハンコックが間違ったコードを弾いてしまった。ハンコックは頭の中が真っ白になり、あとで大目玉をくらうことを覚悟した。ところが、マイルスは即座に自らの音を変え、ハンコックのコードが正しく聞こえるように修正し、何事もなかったように平然とプレイを続けたという。
このエピソードが示唆することはこうだ。若手を叱責するのではなく、ハイレベルの技術を示すことによって反省とステップアップを促すという、リーダーシップの一理想を見ることができること。そして今ひとつは、ミスをミスとして安易に捨て去らず、そこに何かを感じ取り、プラスに転じる姿勢の大切さだ。マイルスの音楽に対する、このような自由で柔軟なアプローチは、実際に何度もジャズを変革していく原動力となったのである。
日々の仕事や生活の中で、我々はあまたの異常事に遭遇する。明らかなミスやアクシデントだけでなく、なんとなくの違和感も含めて、様々なバリアンスが目の前を通過していく。これらに身構えて早めに芽を摘むのはひとつの対処法ではある。一方で、そこには重要なヒントが隠れているのではと考える視点を欠くべきではない。
つまるところ「奇貨」である。奇貨を目にした時、忌まわしきものと排除するのではなく、何かのチャンスかもしれないと拾い上げるセンス。「目抜き通りを歩きつつ、道端の石ころや雑草を見落とさない」というような感覚だろうか。
筆者が院長職に就いて2年が経った。この間、大きなトラブルをいくつも経験した。某スタッフから「持ってる院長」という不名誉な称号をいただきもした。リスクマネージメントには日頃の備えが大切であり、そのためにいくつもの奇貨をふところに入れて温めておく。その感性と反射神経を磨く。そしてストレスやコンフリクトをプラスと捉えられる楽観主義を持ち続ける。リーダーにとって必要なスキルにちがいない。
令和2年は当院にとって創立70年目の節目の年である。次の10年はどんなものになるのだろう。スタッフの不安はつきないだろうが、明るい未来を示すことが院長の使命だ。そう自戒しながら、ともすれば険しい顔つきで病院内を歩いている自分に気づくたびに、こっそりと口角をつり上げるのである。