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院長コラム “やじろべえ” バックナンバー 2021年度

2022年3月

 コロナ禍によって浸透した用語はたくさんあるが、エッセンシャルワーカーもそのひとつ。日本語にすると、“必要不可欠な労働者”あるいは“社会機能維持者”。おお、なんと誇らしい響き。身を削って働いている医療従事者の辛苦も少しは報われようというものだ。
 一方で、必要不可欠ではないこと、不要不急のことも実は大切であることをコロナ禍は示してもいる。社会の潤滑油としてノンエッセンシャルは必要であり、経済はいくばくかのムダとぜいたくで回っている。効率性だけを追求すれば、経済は縮小しGDPは伸びない。
 食事を例にとってみよう。先進国のフードロスは目に余り、世界レベルでの食糧供給不均衡は解決すべき課題ではあるが、必要最小限の質素な食卓が毎日続くのはやりきれない。ムダとぜいたくは文化の肥やしであり、それをそぎ落としたらフランス料理も中華料理も今のようには進化しなかっただろう。
 「ムダを許容し豊かさを追求する社会」 vs 「循環型社会とSDGs」。この二律背反にどう折り合いをつけるか、悩ましい問題だ。

2022年2月

 余暇を自宅で過ごすことが多くなった今日この頃。読書量が増え、物理学の一般書なんぞに手を出すものの、文系の頭ゆえ、どこまで理解できているかはあやしく、物理法則を実社会に投影してみたりと、あらぬ方向に思考がさまよう。たとえば…
●相対性理論
自分と他人とは異なる時間が流れており、別々の世界を生きている。よって他人を理解しようとか、自分を他人にわかってもらおうなどと期待しないことだ。
●不確定性原理
位置と速度のように、物質には同時に測定できないペアがあり、測定する行為自体が系に影響を与える。部下がちゃんと仕事をしているかどうか上司が確かめようとした途端、部下は言動を変えてとりつくろい、勤務態度の本当のところは結局わからない。
●熱力学の法則
物質は時間が経つにつれてエントロピーがより大きな状態、つまり無秩序に向かう。コロナ禍で行動自粛を要請されても、がまんできずに街に繰り出し旅行に出かけてしまうの自然な行動である。
●宇宙の終焉
環境問題の克服に失敗して地球に住めなくなっても、他の星に移住する手がある。太陽の寿命が尽きても、太陽系の外に移住先を求めることができる。ところがところが、ヒッグス粒子や暗黒エネルギーの研究によって、宇宙にも寿命があるかもしれないことが分かってきた。宇宙が終わるとは、この世界そのものが消滅するということ。どのみち人類はいつか滅びる運命であることを前提に、わが人生を見つめ直してみる。

2022年1月

 私が毎日購読する新聞は日本経済新聞だ。子供のころから読み親しんできた某紙が従軍慰安婦問題で失態を演じたことを機に切りかえたのである。その日経だが、経済関連の情報量はさすがと感じる一方で、読んでいて引っかかるものがある。
それは、「成長、拡張、右肩上がりこそ正義」、「絶えざる革新とイノベーションが不可欠」というメッセージ、つまり資本主義を肯定する思想で作られていることだ。経済を専門とするメディアなのだから当然とはいえ、しっくりこない感情をひきずりながら読んできた。
 この違和感があながち的外れでなかったという想いを裏打ちするのがコロナ禍と環境問題である。ここ数年の最重要課題となったこれらの問題は、資本主義の正当性と普遍性に疑問を投げかけ、拡張一辺倒のやり方にブレーキをかける。成長と持続可能性、ふたつの潮流の間で、2022年も世界はもがき続けることだろう。
 わが医療界に応用してみよう。技術革新の営為は不可欠としても、医療・福祉に求められるものと資本主義の理念とは必ずしも親和性が高くない。個々の医療機関が、おのが利益を追求し事業を拡張することを是とする姿勢は、見直す時期にきていると思うのだがどうだろうか。

2021年12月

 2021年に逝った著名人の中に漫画家白土三平がいる。代表作「カムイ伝」を若い頃に数回読んだことのある私は、その訃報を複雑な想いで聞いた。というのも、彼が描いた江戸時代の農民は虐げられ貧困に苦しむ下層民であったが、どうも史実と異なるらしいからだ。この農民像が定着したのは白土氏の影響が大きいと言われている。「士農工商」という用語も最近の教科書から消えつつある。
 たとえば、「水呑百姓(みずのみびゃくしょう)」にどんなイメージを抱くだろうか。田地を持たない小作人で、水しか飲めない貧しい人たちと多くが捉えているのではないか。実際は中世以降、農民を含めた民衆は米作以外の多様な生業(漁業、職人、製塩、鉱山経営、商売、運送業、金融業など)に携わっていたことが近年明らかになっている。水呑百姓も例外でなく、むしろ土地に縛られない自由さゆえ様々な分野に進出し、必ずしも貧しい生活ではなかったらしい。
 一部の著名人の影響で偏った見方が大衆に固定化される。有名なのは司馬遼太郎だろう。いわゆる「司馬史観」によって、多くの日本人の歴史観や歴史上の人物像がリードされ定着している。
 もっとも当の作家たちはフィクション、エンターテイメントとして作品を出しているのであり、実際に司馬遼太郎自身もそう述べており、ゆがんだイメージを持つのは受け手側のリテラシーの問題とも言える。その証拠に、司馬氏の代表作「竜馬がゆく」の主人公の名前には、実在の人物(坂本龍馬)とは異なる漢字が当てられているではないか。

2021年11月

 日本経済新聞(10月23日)は、都道府県別の新型コロナウイルス対応ランキングを発表した。「医療」、「ワクチン」、「検査」の3つの視点からスコア化し合計点で評価。トップから福井、山口、島根、和歌山、長崎、鳥取、徳島・・・と、ワクチン高接種率を誇る山口県は堂々の2位という結果であった。
 一方、大都市をかかえる都道府県の多くは下位に沈んだ。医療資源が豊富であるはずの大都市圏の医療体制は、実は有事には脆弱であることが示されたと言える。ハードが整っていることとそれが有効に機能することとは別であり、重要な示唆を与える。
地方の医療危機が言われて久しく、その原因に医師の不足や偏在が挙げられる。しかし医師確保が最優先の対策たり得るか、コロナ禍における大都市の苦闘ぶりは我々に再考を促している。医師確保はピースのひとつではあるが、十分条件ではない。有事には、柔軟で機動的な体制と、それを可能にする指揮命令系統が求められる。これらの構築とメンテナンスはハードの整備以上に大切であろう。
 地方にとって都会は羨望の対象だ。だが隣の芝生は青く見えるものであり、一枚はがせば、その下の苗床は粗悪かもしれない。生きのいい芝生を育てるには、日頃からの土壌改良と維持が欠かせない。

2021年10月

 コロナ禍によって多くの催しが延期・中止に追い込まれているが、資風祭(しふうさい)もそのひとつ。今年も開催が見送られたようだ。
 資風祭は幕末の豪商・白石正一郎を顕彰する目的で、彼の命日に合わせて毎年執り行われてきた。開催地の白石家邸宅跡が当院からほど近いこともあり、お招きいただき出席したのは、もう数年前のことだ。
 白石正一郎は私財を投げうって幕末の志士や長州藩を資金面から援助したが、その原資は廻船問屋で営んだ海運業の利益である。かつて赤間関と呼ばれた下関は、江戸時代の国内海上輸送ルート西回り航路の要衝であった。この地の利を生かして得た資金があったからこそ、長州藩は維新を成しえた。
 長州藩庁は萩にあったため、下関に飛び地の藩領を持った。現在の新地や今浦町あたりである。その周辺に越荷方(こしにかた)と呼ぶ拠点を設置し、廻船で運ばれる産物の集荷・保管や金融業など手広くこつこつと商売を行い、来るべき倒幕に備えたのである。
 越荷方跡地は南部町・西尾内科胃腸科さん前に見ることができる。また長州藩士の出先機関である新地会所跡は広崎内科小児科医院さん横に残っている。コロナ禍で遠出が難しい今、手近な史跡めぐりをしてみるのもいいだろう。

2021年9月

 なんと濃密な夏だろう。
 盛り上がりと批判の間を振幅しつつ東京オリンピックは閉幕した。パラリンピックまでしばし一息と思いきや、梅雨の再来と見まがう長雨が日本を水浸しにして、熱海の土石流の残像消えやらぬまま、いくつもの水害が全国に発生した。海外に目を向ければ、あっという間のアフガニスタン政権崩壊とその後の大混乱。締めくくりは菅首相の退任か。
 そして、言わずもがなコロナ禍である。第5波は過去最大のビッグウエーブに成長した。切り札のはずのワクチンで集団免疫が得られるのか雲行きがあやしい。当面、医療崩壊回避を肝に銘じて、さらなる長期戦を覚悟するしかなさそうだ。
 長期戦を乗り切るには、合理的判断を損なわないために、安定した精神状態を維持するしかけを社会と個人が持つことが必要である。その意味で、東京オリ・パラは有効に機能したのではないだろうか。ひととき人々の気持ちを上向かせ、なによりも選手たちの「開催してくれてありがとう」の言葉は、日本国民の払った多大な負担をいくらか軽くしてくれたように思う。
 当初、東京オリ・パラ開催に懐疑的であった私の今の心境は、「ナシよりのアリ」かな。

2021年8月

 あまたの混乱とコロナ拡大の中で行われた東京オリンピック。本号をお届けするころには閉幕し、世間はパラリンピックの準備に追われているはずである。
 パラリンピックでは特別に応援したい選手がいる。視覚障害者柔道女子57kg級の廣瀬順子さんだ。理由は私の大学同級生のお嬢さんだから。リオ・パラリンピック銅メダリストであり、夫の廣瀬悠氏も男子90kg級に出場と話題に事欠かない。暖かいご声援を。
 パラリンピックにちなんで、障害者への見方が変わる一冊「目の見えない人は世界をどう見ているか」(伊藤亜紗著、光文社新書)をご紹介。そこには、視覚障害者とは“単に健常者から視覚情報が抜け落ちた状態の人”ではなく、視覚無しで成立している世界に生きているという事実が記されていて、次のように例えている。“四本脚のイスから脚を一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまい不安定となる。しかし最初から三本脚のイスは安定した状態で立っている。視覚障害者はもともと三本脚のイスのような状態”であると。それは想像以上に豊かな世界であるらしい。
 見えているといっても、結局は脳の視覚野で再構成されたイメージを見ているに過ぎない。視覚障害者も同じことである。

2021年7月

 昭和世代にとって、野球は生活に密着した特別なスポーツであった。とりわけ筆者のように中学校野球部に所属し、プレーヤーのはしくれであった者は、野球に対してなにかしら一家言を持っているものである。
 それが昨今の変わりようはどうだ。TV中継のカウント表示の順序がストライク・ボールであったのが、いつの間にか逆になっていることからしてそもそも違和感なのだが、事態はもっと深刻だ。
 たとえばピッチャーの球種。シュートなどはすでに死語で、ツーシーム、カットボール、スプリット、スラッター、スラーブ、ジャイロボールなど漫画の世界のような変化球が繰り出されてわけがわからない。ストレートでさえ正確にはフォーシームと呼ぶのだそうな。
 衝撃的なのはフライボール革命だ。昭和のオジサンたちは、バットはダウンスイングあるいは水平に振るのが基本と教えられ、ライナー性の打球を飛ばすことが理想であった。これが実はそうではなくて、安打確率や本塁打確率のデータから、フライを狙った方がトータルで結果が出るということが示されたのである。このためメジャーリーガーはこぞってフライを打とうとする。見よ、大谷翔平のアッパースイングを。
 テクノロジーの進歩と情報の集積によって常識は塗りかえられていく。知識は常にアップデートする必要ありという教訓。

2021年6月

 コロナ禍は第4波のままにワクチン接種というフェーズに入ったが、この事業には各自治体の巧拙が目立つ。山口県はというと、医療従事者への全国接種率30%台という5月中旬時点で、90%以上完了という優秀な成績であった。大都市圏の困難さは理解できるが、必ずしもそれだけが理由とは言えない。山口県と同規模人口でも低接種率の地域があるからだ。
 この差はどこから来るのか。他地域の実情を詳細には知らないので、下関市に限ってこれまでを振り返り、私見を述べてみる。
 下関市では、コロナ禍早期から保健部と医療関係者との間に良好な連携を築くことができた。それを仲介したのが市医師会、とりわけその中のプロジェクトチームである。チームメンバーと下関市とでメーリングリストなどでリアルタイムに情報を共有し意見交換を日々積んだ。これが大きかったと思う。
 この連携においては当事者たちが少しだけ前のめりになることがキモであろう。例えば、個々の提案に医療関係者が難色を示しても、下関市側は引くことなく粘り強く交渉する。一方、医療関係者側は半歩も一歩も前に進んで余力を提供する。この関係性とムードが下関市では醸成できたと思うのである。
 コロナ禍は有事であり、戦時や大災害と変わらない。平時の論理を持ち出して消極的姿勢にならないことが必要である。ミサイルが飛び、洪水が迫っている時に普段のやり方は通用しない。

2021年5月

 新型コロナ第4波は、昨年に続いてしものせき海峡まつりの主要なイベントを中止に追いやった。残念なことである。
 海峡まつりの由来は、言うまでもなくこの地が源氏と平氏との最終決戦地であったことにある。この源平合戦。その後の歴史を見ると、結局なんだったのかという考えにかられる。というのも、勝利し鎌倉幕府を開いた源氏の政権はわずか3代で途切れ、後を継いで100年以上も執権政治を行った北条氏の祖先が平氏だからだ。
 その後の武家政権支配者が源氏か平氏かの視点でながめるとなお興味深い。足利氏(源氏)、織田氏(平氏)、明智氏(源氏)、豊臣氏(平氏)、徳川氏(源氏)と、きれいに源氏と平氏が交互に並ぶのだが、これにはからくりがある。室町時代ころに、武家政権は源氏と平氏が交代で担うという一種の都市伝説(源平交代説)が広まり、ときの権力者がそれに寄せた結果であるらしいのだ。
 実際、もともと藤原氏の子孫を名乗っていた織田氏が、信長のときに平氏に鞍替えした史実があるように、戦国時代以降の武士の家系はあやしいものが多い。極めつけは下層民出身で出自が不明確な豊臣秀吉である。

2021年4月

 アメリカ・カリフォルニア州中部にあるデスバレーは、世界で最も暑い場所のひとつとされている。年間降水量が50mmしかなく、流れ込む川の水は砂に吸い込まれ、大地は乾ききっている。砂漠が広がり、塩湖が点在する景観は荒漠そのものであり、生物にとって過酷な環境だ。
そのデスバレーに信じられないような景色が現れる瞬間がある。およそ10年に一度、まれに降る大雨のあと、草木がいっせいに芽を吹き、カラフルな花の絨毯が一面を覆うのだ。スーパーブルームと呼ばれるこの現象、それは見事な光景らしい。死の谷に埋もれている植物の生命力には驚かされるばかりだ。
 デスバレーのような組織や人間関係がまわりにないかと、うがって見てみる。活力を無くしたそれらも、時機を得て栄養が与えられれば息を吹き返すかもしれない。地中の種の一粒一粒は人のマインドであり、組織のポテンシャルだ。種子の生命力を信じてあきらめない。リーダーはそうありたいものである。あれ、なんだか花咲か爺みたいだ。

 この1年もの間、地域医療構想をとりまく状況は、あたかもデスバレーであった。国も自治体も医療界もコロナの対応に追われ、とても地域医療構想を議論する環境にはなかった。だが、COVID-19感染症の実態が徐々に見えてきて長期化の覚悟を強いられる今、そろそろ地域医療構想に水をやる時期にきていると思う。
 それどころではない、コロナ収束まで一旦議論をストップさせるべきという意見もある。しかし、コロナ禍で明らかになったのは、むしろこれまでの地域医療構想の議論が遅きにすぎたことではなかったか。
 病院や病床がたくさんあっても柔軟に対応できない、機能や配置がばらばらの医療資源を有効に配分できない、そしてなによりも指揮命令系統が不明確であるなど。あらゆる課題が平時の備えの脆弱さに起因しており、その備えこそが地域医療構想の一環であろう。コロナ対応と地域医療構想とは別物と捉える見方自体が誤っている。
 地域医療構想と言えば、病床削減や病院再編といったデリケートな議論にとかく目が向きがちであり、ステークホルダーたちの神経を逆なでする。しかし、議論の本質はそこにはなく、地域連携の構築こそにある。この1年あまりのコロナの協議や連携は、実は地域医療構想そのものと言える。

 先日、地域医療構想に関する市民向けシンポジウム“知っていますか?下関の医療の現状と将来”が開催された。そこでの厚労省医政局・長谷川学氏(元下関市保健部長)の発言、「コロナは社会の人口構成を変えるには至らなかった」が印象に残った。ペストは14世紀のヨーロッパの人口を3分の1も減少させた。天然痘はインカ帝国滅亡に多大な影響を与えた。COVID-19はそれほどの脅威ではないということ。であるならば、コロナごときで従来の施策の歩みを止めるわけにはいかない。一旦は干上がった大地に再び水をまき、スーパーブルームを待つ。その1年にしたい。
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